2012年1月21日土曜日

「インターネットの自由」と表現の自由 : 残虐な人権侵害−決して見逃さない

[インターネットの自由」を正しく理解しよう
2012年1月16日
編集部注: 本稿を書いたゲストライターのRichard Fontaineは、Center for a New American Securityのシニアアドバイザーで、Internet Freedom: A Foreign Policy Imperative in the Digital Ageの共著者(Will Rogersと)である。本稿では同書の内容が一部紹介されている

インターネットの自由とは何か? 米国政府には「インターネットの自由」に関するプロジェクトとして、国務長官によるスピーチもあり、プログラムには数百万ドルの予算が計上されている。昨年国連のある高官が主要な報告書を発行し、あらゆる個人が自由にインターネットを使う権利を強調した。別のやり方しとして、インターネット生みの親の一人でGoogleの「最高インターネット伝導師」であるVint Cerfが最近New York Timesで、インターネットの利用は人権ではないと主張した。そしてDevin ColdeweyがTechCrunchでこの議論を解説し、インターネットは権利を可能にするイネーブラーであり、権利そのものではないと指摘した。

この答は重要だ。人間活動の益々多くの部分がインターネットを基盤とする技術を通じて行われるにつれ、われわれのオンライン権 ― そしてわれわれが真の「インターネットの自由」と考えるもの ― が政治的、経済的生活に占める重要性が大きくなってくる。昨年新しいコミュニケーションツールが中東全体に劇的な影響を与え、独裁的政府がオンラインの自由を奪おうとするこの時、多くの人が大切に思っているこの概念を整理しておく価値があるだろう。

はじめに、2つの関連しているが異なる概念、「インターネットの自由」と「インターネットによる自由」を区別しておきたい。インターネットの自由とは、サイバースペースにおいて束縛のない表現で議論できる能力だ。このインターネットの自由のビジョンは、Evgeny Morozovという学者が指摘しているように、検閲、政府による監視、DDoS攻撃等「何か」から自由になることを意味している。インターネットの自由を支える原理は、例えば人権に関する世界宣言に明文化されており、そこには、「あらゆるメディアを通じ国境を問わず」妨げられることなく情報を受け取り分け与える権利は不可侵である、と書かれている。

この意味で、インターネットの自由は、数十年にわたって米国の外交要素の一つとなっている表現の自由の概念とは少し異なっている。これまで米国大使は外国政府に対して、報道の自由を認め、拘束されたジャーナリストを解放し、不都合な放送の妨害を止めるよう、長年圧力をかけてきた。

インターネットによる自由は、より魅力的かつ複雑な着想だ。その支持者たちは、 オンラインの自由が増えればオフラインの自由も増えることを示唆する。つまり、インターネット上を自由に流れるアイディアが、民主主議を促進する。アラブの春を見た人なら、反対者らが政治変革を誘発するために新しいコミュニケーションツールを用いたことに、心を動かされずにいられない ― 同時に、エジプトのムバラク、リビアのカダフィー等による、それを止めさせようとする必死の試みにも。

そして、インターネット利用そのものについて。インターネットで正当な表現を行う権利を個人から奪うことは、明らかな人権侵害と考えられるが、国民にブロードバンドを提供できない政府を人権侵害者と考えるかどうかは難しいところだ。

インターネットの自由を気にかける人にとって、概念をある程度明瞭にしておくことが重要だ。要約する人たちは定義を自分の目的のために使用するからだ。例えば2008年4月の国連会議でオンラインの「侵害」が何を意味するかを明確にしようとしたとき、あるロシア政府高官は「一国の政府がインターネットを通じて、他国政府を覆す目的でアイディアを広める時は必ず ― たとえ民主改革の名においても ― それは『侵害』に当たる」と主張した。同じように、6ヵ国からなる上海共同機構 ― ロシアと中国を含む ― では、一国が他国の「政治的、経済的、および社会的システム」を損おうとする行為を、「情報戦争」の定義に含める協定を採択した。

官僚およびそれに対応する民間セクターは、このすべてにおいて重要な役割を担っている。米国は、広く認められている人権を尊重したインターネットの自由、侵害、およびサイバーセキュリティーの、国際的に受け入れ可能な定義を先頭になって制定すべきだ。さらに、人権に関する世界宣言などで許されている政治的発言と、本質的に許されないオンライン行為(児童ポルノ、サイバー犯罪、テロリズム等)との区別を引き続き明確化していく必要がある。

どれをとっても容易ではない。米国の最も近い民主的友好国においてさえ、インターネットの自由を米国で広く受け入れられている� �りも限定的に捉えている。最近のインド政府が大手インターネット会社に対して、好ましくないコンテンツを削除させようとしたことや、ヨーロッパにおける人口集団を侮辱するオンライン発言に対する制限などを見てほしい。しかし、まず取り組むべきは、「インターネットの自由」の正確な意味を整理することだ。この発想 ― そしてこの現実 ― は、混乱させておくにはあまりも重要だ。

画像出典:Feross.org

[原文へ]

(翻訳:Nob Takahashi)

なかなか良い視点の分析だと思います。特に「インターネットの自由」という
新しい視点での問題提起は良いと思います。国境なき記者団も
以前から「インターネットの敵」とレポートを発行して問題提起を行っています。
新しい表現の自由としてとらえるべき問題です。

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